本次的苏州日语学校日语课后阅读题目是依靠人生
私は一本の長い階段を設ける。一年三百六十五日たつと、一段上にのぼる階段である。その階段の六十八段目の一番上のところに私が腰を降ろしている。そして妻、二人の息子、二人の娘、その配偶者、そして孫たちというように、長い階段のところどころに、十何人かの男女が配されている。
下から二段目のところに、去年(昭和四十八年)生まれた幼児二人が、転がらないように紐で結び付けられている。どちらも男の子である。まだ這うこともできず、口もきけない。しかし、なんといっても、この英児二人が際立って溌剌としている。声から何十段でも階段をのぼって行くエネルギ―を、その小さい体に詰め込み、いかなることでも、実現できる可能性を身内に貯えている。まだ人生のいかなる汚れにも染まっていない。本能的に母を求め、乳を欲しがる以外、いかなる欲望も持っていない。人を羨むことも、人を憎むことも、歓心を買うことも知らない。栄誉も、金も無関係である。時時笑うが、神様が笑うことの練習をさせているとしか思わない。ただ無心に笑うだけである。
人間はみな、この英児から出発している。そんな思いが突き上げてくる。この二人の英児が私の腰をかけているところまでのぼるのは大変である。英児のいる二段目のところから上を仰ぐと、気の遠くなるような遠さであろうと思う。三十段目から四段目あたりにかけてばら撒かれている息子や娘たちは、いつか青春期をぬけて、壮年期に入ろうとしている。当然私などの知らないそれぞれの人生の哀歓を経験しているところであろうと思う。私は残念ながら、そこへ入って行ってやることはできない。いかなる問題があろうと、それぞれ自分たちで処理してゆく他はない。父親がくるしんだように悲しまなければならないであろうと思う。そういう自分で歩き、自分で処理していかねばならぬものが、人生というものであろうからである。
人生
我设计了一条长长的台阶。这是一条经过一年三百六十五天便升一级的台阶。我坐在这台阶第六十八磴的最上端。接下来便是妻子、两个儿子、两个女儿及其配偶者以及孙子们,这十几个人分散的排列在这台阶的各个地方。
从最下边数第二个台阶上,为了不让其掉下去用带子绑着两个去年出生的婴儿。两个都是男孩。他们目前还不会爬也不会讲话。然而,尽管如此,这两个婴儿却十分显眼,充满了生机勃勃。他们那小小的体内装满了从今而后要攀登几十磴台阶的能量,同时也酝酿着不论任何事情都可以使其变为现实的可能性。他们还没受到世俗人生的任何污染,只是出于本能,寻找妈妈,要吃奶,除此之外没有任何欲望。他们既不知道羡慕人,又不晓得憎恨谁,同时也不会讨人欢心,与名誉和金钱更是毫无关系。他们时而笑一笑,但这笑就能让人觉得好像是神灵在让他们练习似的,只是天真无邪的笑着。
人类都是从着婴儿期长大的。我突然浮现这样的想法。这两个婴儿要爬到我现在坐的地方,的确不容易。我想,从婴儿所处的第二磴往上看的话,那距离一定是无限遥远的吧。而分散在第三十至四十磴之间的儿子和女儿们,不知何时已度过了青春期,正要步入壮年。当然,他们各自也一定经历了我所难以知晓的人生的喜怒哀乐。遗憾的是,我无法体会他们的这些经历。不论有什么问题,都只有靠他们自己去解决。我想必须让他们像其父亲一样经历所要经历的痛苦,体验所要体验的悲伤。因为这种必须由自己来体验、自己来处理的经历就是所谓的人生吧。